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<対馬探訪2023> 2. 江戸時代① ~国書偽造もやむなし!宗氏の処世術

朝鮮出兵が終わると、対馬はだいぶ荒廃し、経済的に大低迷。

そりゃそうです、長きにわたり朝鮮との貿易で成立していたのに、
朝鮮出兵によってその生命線が断ち切られ、友好関係が断絶したのですから。
国交の中継点から国防の最前線へと一変せざるを得なかった、“国境の島”たる対馬の板挟み感に心が痛みます。

貿易できない、戦いに駆り出されて人口は激減、田畑も荒廃して餓死者も続出。
さらには上陸した余所者が大暴れして、毛利高政が禁制を出したほど対馬は混乱を極めたよう、、、いいこと、なんもないです。

しかし、ここからの宗氏の巻き返し処世法がスゴい!

今回は、朝鮮出兵~江戸時代の戦乱の世を生き抜いた、宗氏のお話をしますね。
 

朝鮮出兵の終焉と関ヶ原の戦い

ツシマヤマネコの福馬くん(2019年没)

厭戦ムードの中でダラダラ続いた朝鮮出兵は、1598(慶長3)年の秀吉の死をもってようやく終息。
足かけ7年にわたる大戦で多くの大名が大疲弊し、命からがら帰国します。
この諸大名の怒りの矛先、豊臣政権の内部分裂による不穏な情勢をうまく操ったのが徳川家康といえるでしょう。
2年後の1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで勝利し、政治的な実権を握ることになります。
家康は名護屋城に参陣しているものの渡海はしておらず、力を温存できたのも大きいでしょうね。
(秀吉、なんで家康を出兵させなかったの…?)

さて、対馬に必要なのは、国交の回復!貿易の復活!
宗義智は朝鮮出兵が集結すると、デキる家老・柳川調信とともに、すぐさまに家康に会っています。
家康が朝鮮との講和に前向きだったことから、宗氏は戦後処理をこなしつつ、朝鮮交渉に弾みをつけていきます。

実は驚くことに、宗氏は関ヶ原の戦いで西軍に味方しています。
宗義智の正室は小西行長の娘ですし、石田三成とも近しい関係にあったからです。

宗氏は、西軍に味方しながら江戸幕府につぶされなかった少数派。
関ヶ原の戦い後の江戸幕府の外様大名への当たりはかなり厳しく、
なんだかなんだで言いがかりをつけて制裁を与えたり、自然消滅への道筋を演出したりと、潰しにかかったエピソードは数え切れません。
ところが、宗氏は改易すらされませんでした。

家康に認められた少数派!宗氏のココがかっこいい

ツシマヤマネコの福馬くん(2019年没)

宗氏は、室町時代から朝鮮との外交実績があり、国交のノウハウを持つ一族。
朝鮮出兵で悪化した国際関係を修復せねばならない家康としても、頼らざるをえなかったからでしょうね。
対馬を治められるのは宗氏だけ。国替えの選択肢などなかったのでしょう。

この時期の宗氏の生き様が、かなりイイ!笑

家康側と朝鮮側、双方のメリットと妥協点を探りながら、微妙なラインでなりふり構わず工作。
ときには独断も織り交ぜ、綱渡りのように際どい判断も下しながら、国交回復のパイプ役を見事に完遂しました。

軽く、国書の偽作までやってのけてます。
朝鮮側が徳川政権から国書を送るように要求してくると、国書を偽造して朝鮮へ提出。
江戸を訪れた朝鮮側の回答使の返書も、先に偽造した国書と辻褄が合うよう改ざんしてしまいます。
その後の交渉でも、国書の偽造と改ざんを行いました。

対馬にとって、国交回復できるかは死活問題であり、
実務交渉役は江戸幕府の世で生き抜く起死回生の大チャンス。
参勤交代も3年に一度に免除され、結果的には防衛協定を締結させ朝鮮貿易の独占に成功しました。
日本使節団が居留する「倭館」を通じた貿易は、やがて対馬に光と潤いをもたらします。


 
「金田城まるごと探訪ブック」より

対馬って、独立国家というか、現在の認識では分類できない立ち位置だったのでしょうね。
秀吉も、太閤検地の対象外としていますし。
いい意味で、どこにも属さず、独自のバランス感覚で成立してきたのだと思います。

「対馬まるごと探訪ブック」に掲載されている座談会のとき、
春風亭昇太師匠が「宗氏って商人っぽいよね」と仰せだったのが、言い得て妙だなと思いました。
均衡を保ち方、判断力や行動力が、政治家というより商人っぽいですよね。笑
実際に、柳川氏はもともと貿易する商人だった説があり、そのおかげで出世したようです。
 

国書偽造がバレて大ピンチ!徳川家光に裁かれる

対馬にいた普通のネコ


…といいつつ、のちに宗氏は国書偽造が原因で大ピンチを迎えます。

柳川調信の孫・柳川調興が国書偽造を江戸幕府に暴露した「柳川事件」です。
江戸城の大広間で3代将軍・徳川家光が直々に裁定を下す、というなかなかの大事件でした。

1607(慶長12)年に朝鮮使が奉持した国書を、外交担当の柳川智永(調信の子)が改ざん。
偽作のおかげで国交が成立したのですから、当時は手柄でした。
ところが約30年後、柳川調信の孫・柳川調興が宗義智の後を継いだ・宗義成と対立。
調興は過去の国書偽造を江戸幕府にバラすことで宗氏の失脚を狙う暴挙に出たのでした。

土井利勝らが柳川調興に味方したのに対し、宗義成についたのは井伊直孝や伊達政宗ら。
結果、宗氏は完全無罪となり、柳川調興は津軽へ配流され家臣も死罪となりました。

この頃は、ちょうど家光が幕藩体制が確立させた時期。
ここで家光が自ら主君への裏切りを容認してしまったら、江戸幕府が目指す世襲制度や身分制度にも説得力がなくなってしまいます。
そんな背景もあったのではないでしょうか。
264年続いた江戸幕府の基盤や理念を、垣間見る出来事でもある気がします。


ちなみに、一流の文化人だった柳川調興は流人ながら敬意を払われたようで、
弘前城の南西に屋敷を構えておだやかに過ごしたようです。
墓が弘前藩主・津軽氏の菩提寺である長勝寺にあることからも、優遇がうかがえます。






余談ですけど。
李氏朝鮮が15世紀に記した、日本と琉球に関する書物『海東諸国記』(対馬博物館に展示)。
対馬の大きさよ…!!
これだけ、対馬が大きな国として認知されていたのですね。





そして、海岸に流れ着いているハングル文字から韓国との距離の近さを実感しつつ、宗氏に思いを馳せました。笑




次回は、宗氏の城と城下町についてお話ししますね。





Text & Photo / Sachiko Hagiwara


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