<対馬探訪2023> 1. 戦国時代 ~朝鮮出兵で秀吉が築いた城

プロローグ4/4 お届け!城組コンビのディープな旅 から続く
城組コンビの<対馬探訪2023>本編です。

 1. 戦国時代 ~朝鮮出兵で豊臣秀吉が築いた城をめぐる
 2. 江戸時代① ~国書偽造もやむを得ず!宗氏の処世術 
 3. 江戸時代② ~対馬藩・宗氏の城と城下町をたどる 
 4. 石垣のルーツを探して ~西海岸の集落へ 
 5. 近現代 ~マニアじゃなくても垂涎!砲台の宝庫
 6. スイーツから教わる対馬藩 ~石丁場で会った裏話

の6本立てでお届けしますね。
 

豊臣秀吉の命令で築城!



対馬には、全国トップクラスの戦国時代の城もあります。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に豊臣秀吉がつくらせた、清水山城です。
戦国武将の居城のような支配拠点の城ではなく、あくまで戦いのために臨時でつくった特殊な城。


「対馬ってやっぱり、日本の戦いの歴史のデータベース的な存在だなあ」
と改めて思い知らされる、“国境の島”ならではの城といえます。

 

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)って?



文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、豊臣秀吉が明征服を目指した、1592(文禄元)年から足かけ7年に及ぶ戦い。
日本軍(秀吉軍)は肥前の名護屋城(佐賀県唐津市)を出撃拠点として、朝鮮半島へ出陣しました。

思い出してほしいのが、対馬の<九州と朝鮮半島とのちょうど中間>という立地。
そう、対馬には朝鮮出兵の中継地になり、秀吉によって城がつくられたのです。

当時の対馬のトップは、宗氏19代の宗義智(よしとし)。
以前から、秀吉に無茶振りに近い朝鮮との交渉役を任されていた宗氏。
ついに、1951(天正19)年から秀吉に命じられ清水山城を築きます。





清水山城は、宗義智を主力に、相良長毎、高橋直次、筑紫広門らが協力して築城したとされます。

はっきりしたことはわかりませんが、
名護屋城は加藤清正・小西行長・黒田長政が合力で築城したとされますし、
清水山城と同時期に同じく中継地として築かれた勝本城(長崎県壱岐市)は、
築城の命令を受けた壱岐を領有する松浦鎮信を中心に、大村喜前と五島純玄が協力して築いています。
国際戦争に備えた重要拠点ですから、とにかく急いでつくらせたのは間違いなく、
清水山城も、複数の大名が合力で築いた可能性は高そうです。


 

城内に違う石垣が混在する理由



実際に清水山城を歩いてみると、縄張(設計)に統一感がまったくなく、石垣の様相も場所によって違います。

複数人の関わりを感じる、様相の違いが随所に見られます。


 
 
 

たとえば、二ノ丸の石垣は直線的で隅角部は算木積み。
扁平の割り石を使いながらも大きめの石を鏡石のように用い、枡形虎口も見られます。

横矢掛かりが徹底された石垣づくりの枡形虎口は、織田・豊臣系の城の設計・技術の傾向と合致します。





これに対して、主郭の石垣は曲線的で勾配もなく、石材も小さめ。





東南側の虎口は食い違うような2列の平虎口です。



 
 

主郭の石垣は、どこか金田城の石塁や府中(厳原)城下町の石垣を彷彿とさせますよね。
小さな石と大きな石の組み合わせ方も独特です。
対馬ムードが漂う主郭は、宗氏が担当したのかもしれません。

 

全国的にも貴重な秀吉時代の城



こうした、朝鮮出兵時の築城背景を知ることができる城はかなり限られます。
清水山城は、日本の歴史を知る上でもとてもとても貴重なんです。

なにより、秀吉時代の城の石垣が残っているのは、実は全国的にも貴重です。
たとえば、大坂城(大阪府大阪市)も、現在目にできる石垣や堀はすべて、徳川秀忠がつくらせた江戸幕府の城。
秀吉が築いた大坂城は地下に埋まっていて、石垣が断片的に確認されている程度です。
岡山城(岡山県岡山市)も、現在残る石垣の大半は、築城した秀吉配下の宇喜多秀家時代のものではなく、江戸時代に池田氏が改修したもの。
姫路城(兵庫県姫路市)も彦根城(滋賀県彦根市)も名古屋城(愛知県名古屋城)も、築城開始は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後。
全国的に、秀吉時代の城の石垣は残っているだけで希少なんです。

宗氏にしてみれば、自分の土地を中継地にされた上にこんなもんつくらされて、たまったもんじゃなかったと思いますけど。笑
これも“国境の島”たる対馬の宿命ですね。

 

天下人・秀吉の絶対的権力を示す、全国屈指の歴史遺産



清水山城は、対馬南部の厳原港からすぐ、
宗氏の居城である金石城の背後にある標高210mの清水山に築かれています。


戦国時代の城によくある<居館+詰城>のセット構造のように思えますが、違います。
清水山城は古来、信仰の山。東麓には厳原八幡宮神社がありますし、宗氏は手をつけていません。

在地領主の本拠地背後にどーんと、地域文化もおかまいなしでつくっちゃう遠慮のなさよ。。秀吉らしい。笑
それが、当時の最高権力者で天下人・秀吉の力であり、実用性しか必要としない戦争の恐ろしさですね。

宣教師のルイス・フロイスが残した記述を読むと、晩年の秀吉の絶対的権力と支配力は異常だったよう。
清水山城は、秀吉政権の終末期を教えてくれる、全国でも数少ない貴重な歴史遺産といえます。
 

眺望が教えてくれる、意義と価値



重要なのは、清水山城がなぜこの場所につくられたのか、ということです。
最前線となる出撃拠点であれば、朝鮮半島に近い対馬北部につくるべき。

博多にもっとも近い厳原に構築したのは、
名護屋城から海を渡ってきた軍船が中継地・対馬に到着したとき、よく見えることが大事だったからではないでしょうか。


 

登城口から登り最初にたどり着く三ノ丸。
ここからの絶景と石垣の見事さも、それを教えてくれます。

厳原港を見下ろせ、行き交う船もすべて監視できる、この上ない好立地。
山そのものが物見台となる山城にとって眺望のよさは当然なのですが、
裏を返せば、港や山麓からも清水山城がとてもよく見えるということです。
(2022年放送のブラタモリでも、
山麓の金石城櫓門前のタモリさんと三ノ丸にいる方が肉声でやり取りしてましたね)



 

まるで壁のような清水山城の南側斜面の長大な石垣を、
厳原港に近づいた船上の人間は、いやが応にも目にすることになるわけです。





金石城や「ふれあい処つしま」のあたりからも、清水山城南側の石垣を見上げてみてください。
三ノ丸、二ノ丸、一ノ丸の石垣が見え、それらをつなぐように、斜面に沿って延々と石垣が積まれているのがわかります。





私は厳原港に近づく船上からどう見えるのか知りたくて、実際に船に乗ったことがあります。笑
それはもう、城壁が迫り来るような威圧感がありました。
日本軍を鼓舞するような城だったのは間違いなさそうです。

 

清水山城の目的や特徴は?



こうした<見せる要素>こそ、信長・秀吉時代の城の大きな特徴といえます。



 

斜面に沿った長大な石垣は、朝鮮出兵先の倭城につくった「登り石垣」を連想させます。
倭城の登り石垣は港湾確保を目的とした実用性に重きを置いていますが、国内では少し違う使い方が見られます。
斜面に石垣をつくる発想や技術を取り入れた、この時期ならではの石垣のように思います。



 

二ノ丸を歩いていると、とにかく虎口をはじめ南側の石垣の見事さに圧倒されます。



 

北面にも石垣はありますが、どちらかというと南側を重視した印象。
かつ登り石垣のように城壁としての見栄えを意識している気がします。



 

石垣の完成度に対して、曲輪が不整形でガタガタな点にも注目です。
清水山城は秀吉を迎え入れる「御座所」だったとされますが、
こんな造成されていない曲輪に天下人用の建物が建っていたとは思えません。
それは、城を中心とした一大都市までつくり上げた名護屋城と比較すれば一目瞭然。
やはりこの城は敷地内の実用性ではなく、外観の象徴性に重きが置かれているのだと思います。





主郭背後の処理もあまいです。
戦国時代の山城は城の背後が尾根続きの場合、大きな堀切を掘って城域を独立させます。
地域や築城時期、緊迫度によっては、二重、三重に掘り込むケースも少なくありません。
清水山城にそれがないのは、尾根伝いに背後から攻め込まれることを想定していない城、だからでしょう。





清水山城の代表的なビジュアルとして登場する、ニノ丸の枡形虎口。
たぶん、映えるからです。笑

でも、枡形虎口があるからスゴい城だとかそういうことではないし、異質といえば異質。
同時進行で積まれた多様性、厳原港からの見え方を意識したラインや高さなど、
清水山城ならではの石垣の雰囲気を探してみてくださいね。



清水山城って本当に見どころ、語りどころ満載なんです!
けど、いつか「対馬お城大使・萩原さちこの 清水山城まるごと探訪ムービー」を撮れる日を夢見て、出し惜しみしておきます。笑

 

 

ほかにもある!朝鮮出兵ゆかりの城

 

朝鮮出兵時の出撃拠点とされているのが、朝鮮半島に近い北端付近の結石山城や撃方山城です。


結石山城は、上対馬町の大浦湾西側にある標高190mの結石山にある城。
「万葉集」にも登場し、古代には烽(狼煙台)と防人が置かれていたとされる眺望のよさです。

1592(文禄元)年からの文録の役では、小西行長・宗義智らの軍勢は大浦湾から朝鮮に向けて出陣。
よって、結石山城はそれに関連する城と考えられています。
現在はわずかに石垣が残る程度ですが、発掘調査が行われていて、礎石建物跡が確認されています。



 
 
注目は、大浦湾を挟むように、軍監・毛利高政が1591(天正19)年に築いたとされる撃方山城があること。
入り組んだ大浦湾は、どうしても押さえておきたい絶好の立地であることは明らかです。

大浦湾に面した城たちが、出撃拠点だったのか、はたまた別の意義を持つ城だったのかはわかりませんが、
いずれにしても、見事な石垣があるのはこの時期の秀吉政権の城を考えるときの特筆点ですね。

3回も行ったのにちょっとまだ考えがまとまっていないので、また行きたいです。

こちらも「対馬お城大使・萩原さちこの 撃方山城まるごと探訪ムービー(仮)」で、いつか。笑




 
 
渡海前に戦勝祈願をした神社と伝わる、大浦湾に面した岩楯神社。
こうした関連スポットをたどりながら歴史を考える時間がたまりません。






対馬北部は、南部とは雰囲気も気候も違います。
北端からは晴れていれば韓国の釜山も見えて、本当に不思議な感覚です。

「ここから加藤清正も小西行長も渡海したのかあ…」と朝鮮出兵に思いを馳せると、
あまりの近さに恐ろしくなり、急に緊張感も走ります。





ちなみに、実際に船で海を渡ったクレイジーなみなさまもいます(褒めてます)。
私もトライしてみたいです!笑







清水山城の登城口は、厳原港から歩いて10分ほど。
車がない方でもいけますよ。

ちなみに金田城は地元の方は「金田城」ではなく「城山(じょうやま)」と呼ぶのが一般的。
そのため「山城に行きたい」「城山(しろやま)行きたい」などというと、
清水山城ではなく金田城に連れていかれてしまうケースもあるとのこと。
金田城もすばらしいですけど、全然違う城なので注意してくださいね。




Text & Photo / Sachiko Hagiwara


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