<城組の対馬探訪2023> プロローグ 2/4 金田城の5つの魅力【前編】



さあ、金田城の特徴や見どころをお伝えしていきましょう!
たくさんありすぎるので、⑤つに分けますね。【前編】は①~③です。

 

金田城の魅力① スケールと技術の次元が違う!

 
 

まずは「対馬お城大使・萩原さちこの 金田城丸まるごと探訪ムービー」をご覧ください!
と言いたかったのですが、間に合いませんでした。。。笑
こんな感じのムービーです。
2月中には城組のYoutube「城組チャンネル」および対馬観光物産協会のサイトで公開されますので、
ぜひとも楽しみにしていてくださいね!





というわけで、金田城の魅力をダイジェストでお伝えしますね。

金田城は、今から約1350年前につくられた「古代山城」のひとつです。
663(天智2)年の白村江の戦いで、日本(倭)・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗。
「ヤバい!唐と新羅が日本に攻めてくるかも!」と国家存亡のピンチに面した大和朝廷が、
同盟を結んでいた百済の貴族の指導を受けて築いた国防目的の城が「古代山城」です。

白村江の戦いの後、大和朝廷の九州における中心地・大宰府を囲むように、
664(天智3)年に水城(福岡県太宰府市・大野城市・春日市)、
665(天智4)年に大野城(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)と基肄城などが築城されました。

「667(天智6)年に対馬、壱岐、筑紫などに防衛目的の防人(兵士)が置かれ、通信手段の狼煙台が設置された」
と『日本書紀』に記され、金田城はこうした経緯で667(天智6)年に誕生したと考えられています。


古代山城のポイントは2つ。

① 地域限定であること
敵は朝鮮半島側から攻めてくることが想定されるため、封鎖すべきは博多湾など。
古代山城は東北や関東には存在せず、北部九州や瀬戸内海沿岸部などに限定されます。
同時期であっても全国まんべんなく同じ城が生まれるわけではない、というのは日本の城を知る上で大きなポイントです。

② 国家プロジェクトで築かれていること
戦国武将がマイホームのようにつくる居城とは違い、古代山城は国家事業で誕生した城。
大坂城の築城者は豊臣秀吉ですが、金田城の築城者は天智天皇(中大兄皇子)です。
つまり、スケールの大きさ、技術力の高さがヤバめです。


 

金田城の魅力② 全国トップクラス!ハンパないダイナミック石塁



古代山城の特徴は「城壁」です。





山頂付近の斜面に何kmも延々と続いてぐるっと囲み込みます。





万里の長城のようなイメージですね。


 

お城EXPO2022の金田城ブースでも展示され人が殺到していた、金田城のジオラマ。
対馬観光の拠点「観光情報館 ふれあい処つしま」に展示されていますよ。
金田城は超広大なので、事前に全体像のイメージをふくらませていくといいですね。もちろん復習にも◎。





城壁は、土を突き固めた「土塁」または石を積んだ「石塁」。
大野城や基肄城の城壁はほとんどが土塁ですが、金田城はほぼ石塁です。
なんと、現状で2.2km(総延長2.6km)の石塁が確認されています。





高さはもっとも高いところで6.7mもあります。圧巻!
金田城が築かれている城山は山全体が石英斑岩の塊。
そのため、これほどまでの石塁がつくれるのです。





しかも、残存度がハンパない!
石塁のダイナミックさと残りのよさは、古代山城のなかでもダントツでNO.1です。
いや、古代山城どころか、戦国時代~江戸時代の城を含めても全国トップクラスです。





たとえば戦国時代の山城に残る全国屈指の石垣って、
どんなに残存度が高くても部分的かせいぜい数十メートル。
しかし金田城の石塁は、登城道を歩き続ける限りずーっとずーっと続くんです。

「この道のりには何もないけど、次の石垣ポイントまで頑張って歩くかあ…」と耐え忍ぶ時間はありません。
むしろ、石垣ポイントが半永久的に続くため、なかなか先に進めないです。笑





金田城はいくつか途上ルートがあって、1周制覇は上級者コースになりますが、
(時間と体力と脚力に合わせてチョイスしてくださいね)

最短コースで1か所に絞るなら、「東南角石塁」が必見です。


 

これが全国NO.1の古代山城の石塁!





金田城は、対馬の中央に広がる浅茅湾南岸の城山に築かれた城。
時が止まったように穏やかで静かな黒瀬湾(浅茅湾)と、ダイナミックな石塁のコラボレーションよ…!

全国の城・歴史ファン、すべての日本人、いや、全人類に見てほしい景観です。
この絶景を見るだけで訪れる価値があります。
この場所に立って歓声を上げなかった人を、少なくとも私は知りません。


 

金田城の魅力③ 古代の技術、恐るべし!



「城戸=城門」も見どころです。
古代山城の城壁は、谷ごとぐるっと囲み込んでいるのが特徴。
よって、谷を塞ぐようにほぼ垂直に積まれた脅威の石塁が存在します。





金田城内で確認されている4つの城戸の中でも、私が好きなのは三ノ城戸。

幽玄の美!自然と古代人の知恵と技術が織りなすアート!
谷筋につき水の流れなどで崩れてしまっていますが、それもまた1350年の歴史ロマンを感じえません。
よく見ると、岩盤の上に石垣をうまく組み合わせていますよね。あっぱれ!





礎石もかなりのモノですし、ゴロゴロ転がる崩落した石材も、大きくてものすごい数。
たとえば幕末に修復された石垣に用いられたた石材は、控え(奥行き)なく小ぶり。
粗雑な粗割りの石に見えますけれど、比較すると石材からして上モノですよね。



 

驚くのは、高さ6.7mもあるほぼ垂直の石塁の底部に、排水溝があること!

金田城と同時期に築かれた大野城では、古代山城に用いられた「版築土塁」の構法が判明しています。
1350年経っても崩れない、まるで地盤のような固い土塁です。
当時の日本の技術にはなく、百済の貴族の技術と考えられています。
採石方法や石塁の構築法にも、百済の技術が導入されているのでしょうか。





一ノ城戸も圧巻です。





張り出しの部分。
東南角石塁の張り出しは崩れてしまっていますが、ココはよく残っています。
櫓台のように城壁の突出させるのは、韓国の雉城と同じ。
築城時の社会背景がうかがえます。

ちなみに、大野城・水城・基肄城などにみられる
大宰府を囲むような土塁と城を使った防衛線は、百済の都・泗沘と似た思想です。



 
 
谷を塞ぐという発想がもう、なんか近世の城にはなくてすごいですよね。
こちらにも水門(排水溝)がしっかり残っています。

7世紀に古代山城が築かれた後、日本の城の石垣はパタリと姿を消します。
城が軍事的緊張をきっかけに発展しますから、必要なくなったということなのでしょう。
必要なければ技術も継承されません。


城の石垣が復活するのは戦国時代で、
私たちが一般的にイメージする、城をぐるりと囲む高い石垣が登場するのは戦国時代末期です。
織田信長が1563(永禄10)年に築いた小牧山城(愛知県小牧市)で
新発想の石垣づくりを始めていたことがわかっているのですが、
小牧山城では高さ1.5m程度しか積めないため、2~3段の雛壇状にして高く見せる工夫をしています。

つまり、戦国時代末期に復活した城の石垣は、確実に必死に、高く積もうと試行錯誤しているわけです。
その900年前にこの石塁が存在していたのですから、織田信長が見たら、衝撃のあまりのけ反るはずですよね。



…まだ終わりません!5つの魅力【後編】に続きます。




<対馬探訪2023> プロローグ3/4 金田城の5つの魅力【後編】
に続く


Text / Sachiko Hagiwara
Photo /Sachiko Hagiwara , Koyata Saito

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