「対馬」と漢字で表記したのは『魏志』倭人伝が最初です。
この作者が「対馬」という漢字をあてたわけですが、「ツシマ」は「津の島」の意味だったと思われます。
文字通り、海に囲まれ、沿岸部にはたくさんの津(=ミナト)が築かれた島であることが一目瞭然ですね。
対馬には国府の在庁官人である阿比留(あびる)氏がいました。
阿比留氏はもとは上総国畔蒜郡(千葉県袖ケ浦市付近)を出自とする豪族ともいわれています。
対馬は遠国のため、上級官僚が現地に赴任しません。なので、おのずと在庁官人である阿比留氏の力が強くなっていったと思われます。阿比留氏は国衙の兵力なども統括するようになり、さらには祭司としての権威も阿比留氏に集中していきました。
対馬国一宮である海神神社。
ここの祭司も阿比留氏が司っていました。
鎌倉時代になって、全国に守護地頭が置かれるようになると、対馬守護には武藤資頼が入りました。資頼は九州の筑前、豊前、肥前の守護職も兼ね、さらに「大宰少弐」の官職も兼務したため、「少弐氏」と呼ばれるようになっていきます。
資頼は対馬守護代として現地に入る代官を置くことになりますが、そのときに代官に任命されたのが在地豪族の阿比留氏ではなくて、大宰府から派遣された惟宗(これむね)氏でした。
惟宗氏は対馬に入ると、「宗(そう)氏」を名乗るようになり、ここに宗氏という一族が惟宗氏から派生したのです。
宗氏が対馬国守護になり、対馬の完全なる支配者となるまでは、宗氏と阿比留氏の間に熾烈な権力抗争が繰り広げられたのです。
宗氏と阿比留氏の合戦の伝承なども島内には残っています。
阿比留氏を祭神とする神社や、阿比留氏の供養塔などがあるそうですが、残念ながら今回は立ち寄れなかったので次回行きたいと思います。
ちなみに、阿比留氏は今でも島内で一番多い苗字だそうです。
対馬の歴史は面白いです。阿比留氏が上総国の畔蒜郡に繋がるともいわれているので、関東との繋がりを感じてますます興味津々です。
今度は阿比留氏と宗氏の戦いや抗争の歴史を追いかけたいと思います。
対馬にまた来なくちゃ。