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<対馬探訪2023> 9.元寇の舞台をめぐる③いざ、英雄たちの足跡さがし

今回は宗助国の祀られている首塚や胴塚、その他戦いの戦死者を弔ったという伝承を探しに行きたいと思います。
島内のいたるところに、戦いの伝承が残っています。

~激戦の果てに~宗助国の胴塚と首塚

佐須浦から佐須川沿い上流に3.5kmほどいったところに宗助国の首塚と伝わる塚があります。積石の上に五輪塔の残欠が置かれています。
 


さらによく見ると、お箸とお皿のようなものが置いてあります。



次に向かう胴塚は首塚より、1.5kmほど下流にいったところにあります。
胴塚は法泉寺の境内にあり、首塚と同じように積石の上に五輪塔が置かれています。
五輪塔は年代的には江戸時代以降と思われますので、宗助国の戦死した当時のものではありませんが、時代を超えて地元で大事にされていることが伝わってきます。



 

首塚や胴塚が分かれて祀られているのは、戦いの激しさを物語るとも、いくつかの村々で人々がそれぞれに地域ごとに宗助国を偲んだからともいいます。
他にも「手足塚」もあるそうです。次回、手を合わせに行ってみようと思います。
江戸時代に書かれた『寛政重修系図』によると、助国は小茂田浦に葬られたとされています。

胴塚もよく見ると、木でできたお皿とお箸が置いてありました。
モンゴル軍に攻められたときに、兵糧も持たずに戦った助国たちを偲んで、いまでもこのようにお皿とお箸が置かれているそうです。

また、対馬には「佐須餅」という郷土料理があるそうです。
戦いのときに兵糧が間に合わなくて、しかたなく食べた餅だそうです。
餅に塩ゆでの小豆が乗っているお餅だとのこと。
しょっぱいおはぎのような味らしいです。
いつかまた、元寇の戦死者を偲んでお参りに来たときに、佐須餅を食べてご供養したいなと思います。


また、法泉寺のほど近くには銀山神社が鎮座していて、その境内には「太刀塚」があります。こちらは、宗助国の太刀を埋葬したとも、近くに銀山があったために太刀が奉納されたとも伝わっています。




対馬の銀山、実はすごいんです。
なんと、我が国初の銀の産地なんですよ。
銀山の話はまたの機会に。

 

~激戦の果てに~越前五郎の墓

佐須浦以外にも、モンゴル軍との戦いの伝承はたくさん残っています。
こちらは、佐須浦よりも北側の加志浦と呼ばれる地区です。



現在は埋め立てていますが、かつては道路はなく、海が入り込んでいたとされます。
この写真の目の前付近までも海が入り込んでいたといい、ここにもモンゴル軍が上陸してきたと伝わります。




加志浦に伝わる「越前五郎の墓」です。
越前五郎盛賢は宗助国の庶兄ともされる人物です。モンゴル軍来襲のときには、加志浦に布陣して、迎え討ったとされています。
しかし、奮戦するも大軍相手になす術もなく、戦死したといいます。




現在、越前五郎の墓には宝筺印塔が残されています。
その様式から、室町時代のものであることがわかります。時代は合わないものの、この加志浦にもモンゴル軍が来襲し、宗一族が奮戦した歴史を物語る貴重な伝承と遺物といえます。

他にも、助国の庶兄と伝わる右衛門三郎は佐須浦で戦死、甲斐六郎は峰浦で戦死、下野次郎は比田勝浦で戦死したと伝わります。

越前五郎盛賢は与良郡司
右衛門三郎は佐須郡司
甲斐六郎は三根郡司
下野次郎は佐護郡司
各エリアの郡司が、それぞれ配属された土地で戦い戦死していることが伝承からわかります。このことから推測するに、島内全体にモンゴル軍が攻め寄せたと考えられます。

2度目の来襲である弘安の役の戦いの伝承は島内に残っていないとのことで、弘安の役ではモンゴル軍は対馬に寄らなかったともいわれています。
しかし、一説には文永の役の局地的で一過性の戦いではなく、弘安の役の際には長期にわたって対馬が占領されたともいわれています。
島内には「蒙古塚」と伝わる積石塚が多数残っていて、真偽はともかくとして島内全体に伝承が残っていることにより、広範囲で戦いが起きたことが想像できます。

美しい厳原の町並み

国境の最前線であり、元寇のときには真っ先に上陸されて攻められた対馬。
一族の多くが悲惨な討ち死にを遂げた宗氏ですが、元寇のあとにその武功のため恩賞をもらったと考えられます。
助国の子とされる右馬太郎(盛明とも)は史料に乏しいものの、助国亡き後、右馬太郎の対馬支配が強化されたことが指摘されています。
おそらく、元寇における一族の貢献度により、恩賞として支配地の拡大がなされたものと思われます。
そして、宗氏はその後も明治を迎えるまで紆余曲折はあるものの、対馬でその命脈を繋いでいったのです。




厳原の太平寺には貞治6年(1367年)に造立された木造地蔵菩薩坐像が安置されていて、この仏像の造立には宗氏が深く関わっていると推察できます。
中世期において、宗氏の居館は厳原の中村にあったとされ、まさに宗氏は厳原の町を本拠として、約700年にわたり対馬をおさめたのです。



 
宗氏が築いた厳原の町を歩いていると、どこかしこにも歴史を感じ、胸が震えます。
石積みの綺麗な町並みが静かな感動を誘います。




宗氏の菩提寺である万松院や金石城。



 町中に建つ宗義智の銅像。



まさに宗氏の歴史をひもとくことで、今に繋がる対馬の歴史をたどることができますね。
対馬に来たら、鎌倉時代から明治時代を迎えるまでの宗氏の歴史を追いかけてみてください。


Text & Photo / 山城ガールむつみ


Archive List
1.元寇の舞台をめぐる①いざ、モンゴル軍上陸の佐須浦へ
2.元寇の舞台をめぐる②いざ、戦いの痕跡さがし
3.元寇の舞台をめぐる③いざ、英雄たちの足跡さがし
4.憧れの対馬!壮大な歴史と文化

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